いつからか――素足が心地いい
昭和30年代まで、田舎の家には、釣瓶(つるべ)落としの古い井戸があった。
その周りにビロードのような触感の毛をもった雪の下や、どくだみなどの野草が自生していた。
幼いころ、それを摘んでは、ままごと遊びの材料にしたことを思い出す。
その横に、祖父が耕した小さな畑があったらしいが、その水周りのことしか覚えていない。
「困った子だった」
当時の写真を指差して祖母や母が嘆いたことがある。なにしろ、井戸水が好きだったようで、裸足(はだし)で飛び出すからである。
セピア色にくすんだモノクロ写真には、ひだひだフリルのついた木綿の帽子をかぶった幼児が、素足を投げ出して泣いている。その傍らで、困った顔をした、つぶらな瞳の女の子がいる。
裸足の子が、わたし。困惑顔の子は、いとこのふきちゃんだ。
「マーニャが飛び出した!」
声を聞きつけた近所のおばさんが、抱えてきてくれたり、なにかと手を焼かせたらしい。
わが家は、旧中仙道に面しており、本町(ほんまち)筋から、杉野町や桃山という地区へ向かうときなど、近所の人がうちの庭を横切ってゆくことが多かった。
「また出てたわよ」。割烹着の似合うふきちゃんのお母さんが、つれてきてくれたこともある。
マーニャというあだ名は、母のお母さんがつけた。
中国では、娘さんのことを「クーニャン」というが、いとしい娘、愛娘(まなむすめ)のことを「マーニャ」といったようだ。たくさんのおばさんたちの目が、あたたかく幼児を見守ってくれていた。今になると、その事の大きさに気づく。ありがたいことだったなと思う。
そんなせいか、幼いころは、おばさんや、おばあさんたちの井戸端会議が大好きだった。
「あそこの婆さんはどうした?」「嫁さんは元気か?」。たわいもない話しを聞いているだけだったが、人の気配が嬉しかったのだろう。
素足の心地よさは、気取らない会話の心地よさかもしれない。それにしても、「三つ子の魂、百までも」。よほど雪が降ったり、氷雨にならない限り、いまだに裸足にミュールである。
★言葉の窓 「釣瓶落とし」
釣瓶とは、縄などが付いた桶で、井戸の水を汲むもの。
秋の日の暮れやすいことを、「釣瓶落(つるべおとし)」とも。
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