猫の主(あるじ)は憐れかな――。
4匹の家猫と2匹の通い猫を15年ほど飼っていた。家猫はミーコ母さん・アー君・パー子・ミミちゃん、そして通い猫は、ニッキとタローという名であった。
5年前の6月、ミミという名のメス猫をあの世へ見送った。それが、猫との暮らしの最後である。

アー君・パー子はミー子母さんの子どもで、2匹とも白黒だ。黒目がちで甘い顔をしたアー君は、大きなあくびをしたところから命名した。
目やにをつけた目細のパー子は、器量よしとはいえないものの、妙に愛らしいので、ちょっと揶揄ってつけた。迷い込んできたミミちゃんはよくある名前だけれど、ミミズクみたいな顔だったから。やんちゃでおませな鉄火肌の娘だった。
猫との思い出は尽きないが、春先になるとアー君の背中を思い出す。
暖かいのか冷たいのかわからない、春の風がふわ~りと吹くある日、喫茶店「チャミ」のママ(以下、チャミさん)に誘われて、桜台の居酒屋へ足を向けた。
真砂久保通りから、新桜台駅に近い路地を右に曲がり、数メートル進んだとき、塀の上に数匹の猫がいた。その中に、見覚えのある白黒の猫がいた。
「あれっ、アー君じゃない!」
声をかけると、1匹の猫が目を丸くして(そう見えた…)振り返った。たしかにアー君であった。が、そ知らぬ顔をし、ささっと背中を向け、植え込みの中に走っていってしまった。
散歩先で家人に出あい、喜んでくれると思っていた私は、肩透かしをくった気分…。いやいや、猫にとって恋の季節。家人なんか目じゃないか。
数時間後、チャミさんと別れ、ほろ酔い気分で部屋のドアを開ける。と、アー君は何ごともなかったように、籐椅子の上に丸まって眠っていた。
あんまり悔しいので声をかけた。「うしろの正面、だあ~れ」と。 一瞬、耳をプクッと動かしたが、目を開けない。狸寝入りならぬ、猫寝入りか…。
それにしても、猫にとって餌をくれる人が主なのかな!? いいえ、いろんな人が言っているように、猫は己自身が主。そう思い知らされた出来事でした。
春の夜、猫目が光る路地をふらり、ウォーキング。
――歩け歩け! 天まで歩け!――月と影がお友達。
で、アー君のことを思い出し一句よむ。
「鈴つけて鳴くよ今宵も猫の道」 (笑子)
★<コラム1:>俳句の窓/ 猫にちなむ俳句を拾ってみました。
猫の思い=季語:初春 類義語:猫の恋
猫の子=季語:晩春
「両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の恋」 (来山)
「猫の子が道の一町先へ来て」 (山口誓子)
「黒猫の子のぞろぞろと月夜かな」 (飯田龍太)
★<コラム2>:猫歩きの体得/
物見遊山・かんたんウォーキングをみくびるなかれ
歩くことはからだにいいというけれど、どうしてなんだろう? 1歩足をだす、さらにもう片方、そして3歩目。いつもしていることだから、ほんとに効果があるの?と時折、思ってしまう。
健康を考え、1日1万歩をめどに、大きく肘をふって、大またで歩きなさいとか、時折、早や足や後ろ歩きをすればさらに効果的といわれる。
私は、取材記者という仕事がら、歩くことも務めのうち。まして、舞踊家シャクティを師とあおぐ身なれば、動くことを億劫だといってはいられない。それでも、健康だからといって、ウォーキングシューズにはきかえてまで散歩する気にならない。
私ですらこうなのだから、歩くことを習慣づけていない人は、もっと億劫なんだろうなと想像できる。急激に体重が減ったとか、見違えるほど若返ったとか、目に見える効果がないと、気持ちがなえてしまう。「やっぱ、歩くのやめた」となりがちだろう。
そこで、見習いたいのが猫歩き。
いい出会いを求め、ブラブラ~と季節に誘われるかのように歩く。春ならば、梅、牡丹、桜、桃、さまざまな木々を求めて。 異性との出会いを求めるのは、オス猫の喧嘩に見るまでもなく、傷を覚悟しなくてはならないが、花追いならば、そんな危険もないだろう。
そして、気に入った場所、ものにはマーキングを行う。当然のことだが、猫や犬のようにおしっこをかけるのではない。写真におさめたり、スケッチしたり、歌を詠んだり、そんなことだ。
日本には、物見遊山(ものみゆさん)という言葉がある。ウォーキングの極意は、それかもしれない。そう考えると京都にある「哲学の道」だって、物見遊山の場といえる。
今日の私は、こうして「こころぐ」を書き、飽きたら大きなあくびして、10畳ほどの部屋をうろうろと。そう、室内で哲学の道を歩いているんだ。
うわ~、マーニャもいっぱしの哲学者! 天国の猫ちゃんたちも微笑んでいるような気がする。